食欲の秋が到来しました。
厳しい冬にそなえて、秋はいもや種実でエネルギーを蓄える季節です。いも、くり、かき、そして新米のおいしさを楽しめます。
米はいわずもがな日本人の本来の主食です。主食はメニューを描く食事のキャンバスともいえますが、ごはんを中心にするメニューはやはり日本人の体に合っているものです。
そして、米の自給率はカロリーベースで95%、主食用では100%です。日本の食料自給率は39%なので、米を食べることは食料自給率を上げることになります。
自給率201%で日本の食に大きな位置を占める北海道の米の生産量は日本で一、二を争います。
寒すぎる土地は稲作には不向きであり、寒冷地栽培は130年ほどの歴史しかありません。稲作が北海道に定着するためには人々の努力がありました。
今回は寒冷地稲作の父といわれ、北海道で稲作が広まるきっかけとなった中山久蔵のお話です。
幕末から明治維新にいたり、新政府が戦後処理に追われる激動の時代。明治4年(1871年)、仙台藩士だった久蔵は封建制度と決別し、44歳で北海道の現北広島市である島松沢に入植します。
当時北海道は開拓が推進され、諸外国から「少年よ大使を抱け」という台詞で有名なクラーク博士など多数の指導者を招いていました。
道南より以北で米作りはできないといわれており、諸外国の指導者たちは北海道のような寒冷地は稲作に適していないため、小麦栽培や牧畜など欧米型産業をすすめていました。北方開拓のために置かれた開拓使は稲作禁止令を出しています。
しかし、久蔵は稲作にこだわりました。
北海道で唯一稲作に成功していた大野町の赤毛種をとりよせて試作を開始します。
島松川の水を引き入れて水田をつくりましたが、水温が低いために育ちません。そこで久蔵はジグザグに水路を作る、水を溜めるなどして日に当てて水を温めたり、風呂の湯を入れるなどの工夫をしました。一晩中何度も湯を入れることもあったそうです。
久蔵は努力を重ね、明治6年(1873年)に米の収穫に成功しました。
稲作の成功の報告は、欧米型農業を中心とした政策の変更のきっかけとなったそうです。
改良を重ねた種もみを彼は無償で開拓移民に分け与え、稲作の指導をしました。1920年頃には十勝、網走まで広まり、稲作は北海道の広い地域に普及することとなったのです。
冷害などに対策しながら人々は改良を重ね、生産量を増やしていきます。北海道の米は本州の人々には食味の面で好まれない傾向にありましたが、1980年に味の良いきらら397がつくられるなどして、北海道の米は人気も高くなりました。きらら397は寒さに強い久蔵の種の子孫です。
では、なぜ久蔵は稲作に情熱を注いだのでしょうか。
明治維新で状況が大きく変革する中、彼は半生を無為に過ごしたのではないかと省みたそうです。激動の新時代に何かをやろうと思い立ったのではないでしょうか。
そして、当時の移民の多くは米、または生活に便利な稲わらも必要としていたようです。日本人である以上米が食べたいという思いがあったことは想像に難くありません。
久蔵は文政11年(1828年)、大阪に生まれました。天保4年(1833年)から天保10年(1839年)ほどまで続く、江戸三大飢饉のひとつである天保の大飢饉を幼少時に経験しています。米不足に陥り、飢餓に苦しむ民衆が行き倒れ、百姓一揆や打ちこわしが起こるような地獄絵図を記憶のどこかに留め続けたかもしれません。
一杯のごはんが食べられないことが招く悲劇、食べられることの喜びやおいしさを身にしみて知っており、情熱の一助となったとも想像できます。
米離れのすすむ昨今。
ごはんはおいしい、という日本人にとって当たり前の感覚が、日本の食を守るのかもしれません。
新米の炊き上がる豊かな香り、もちもちと甘い味わいを伝え続けていきたいものです。
おいしいメロンづくりには、昼間の十分な光合成によって作られた甘みが、夜に冷え込みぎゅっと閉じ込められるということが欠かせません。
寒暖差が激しく水はけの良い北海道夕張の地で育つ、オレンジ色のみずみずしい果肉を持つメロン。徹底した品質管理のもと、熟度・糖度・果肉の質・形状など厳しい選果基準に合格したものは「夕張メロン」の名を冠されます。
夕張メロンは毎年気候条件が変わる中でも良い品質が保たれていますが、そこには農家の方の努力があります。
たとえば美しい模様をつくりだすネット。
ネットは光にポイントがあります。直射日光を当てすぎると皮が固くなりネットが出ません。逆に日陰では途中でネットの成長が止まってしまいます。光を調整するために、農家の方はなんと日に10回以上もシートを上げ下げするのです。
また、甘みを決める温度に対して、日中28度、夜間15度の温度を維持するために、3時間ごとにビニールの開け閉めをし、温度調節がされるといいます。
メロンの変わらない美しさ、おいしさには、農家の方の眠らない努力が隠されているのです。